自意識朦朧

Simple Lifeを妄想するライフログ

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朝坐禅会に参加してきました

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ミニマリズムや断捨離の根底には『禅』というキーワードがある。

実際、『禅』の精神を基準としてシンプルライフを実践している人も多いそう。

では、いったいどのようなものなのか、お寺でちゃんとした坐禅を体験してみようと近所の禅寺にいってきました。

ボクが選んだのは小さな禅寺の早朝坐禅会。
有名所の大きなお寺では、土日の昼間などに定期的に坐禅体験を行っているのだが、やはり観光客向けという印象が強い。
そこで、あえてなるべく小さなお寺の、しかも早朝の坐禅会を選ぶことで、より本質に近いものが体験できないかと思い参加してみました。

朝6:30開始

早起きの習慣を少しずつ始めていたが、この時間はなかなか気合が必要(*ノω・*)テヘ
まずは5時に起きるという苦行からスタート。
お寺は近所なので自転車で向かう。小さなお寺といっても優に200坪はありそうな敷地。境内に自転車をとめる。

坐禅を行う部屋はご本尊のある本堂とは別の至って普通の和室であった。
板の間の専用のスペースを予想していただけに、ちょっとだけ残念。坐禅には坐布と呼ばれる固めの丸いクッションのような専用の座布団をお尻に敷くが、これも普通の座布団だった。

そして坐禅の醍醐味ともいえる肩や背中を打つ『警策(きょうさく)』もなし…

ただ座るだけのシンプルなシステム。

参加人数は僕を入れて2人。ちょっと緊張気味でスタート。

『ただ禅である』

まずは住職とともに、禅にまつわる本を皆で朗読。朗読箇所は住職がその都度抜き出した数行の原文で今回は無住禅師という高名な禅僧の言葉だそうです。

「作勿生座禅。」和上答「不作勿生、只没禅。」
(「そもさんざぜん。」わじょうとう「ふそもさん、しもぜん。」)

これは「坐禅とはなにか(どのようにするのか)?」という問いに無住禅師は「どのようにという問題ではない。ただ禅である。」と答えている。

坐禅は一種の儀式めいたものという認識でいたがちょっと違うようだ。

決められた作法、身体技法を練習、習熟し、そこに自分を落とし込んでいくことで、心の深層に触れるというイメージを持っていたが、そのような「型」にハメるような行為自体が「縛り」となってしまう。

時間や場所、作法や呼吸法なんぞは表面的なもので、「只、立つ」「只、座る」という至極シンプルな思考法が大事なのだなと解釈した。

つまり、どこで何をしていようが禅になるということ。

街で歩きながらとか、お風呂に浸かりながらとか、ベッドで寝転んでいても自分がその境地に入れば禅なのだと思う。

周りの雑音に惑わされないで、自分の行為を只見つめるというフラットな精神状態を作り出せるようになるのが大事なのかと。

 

座禅スタート

一通りお話をきくと座禅の実践にはいる。

座り方やお作法などを教えてくれるのかなと思ったら特になし。

先程の教えの通り只、座るといった感じ。

綿の座布団を二つ折りにしてお尻の下に敷いてあぐらをかく。

手の位置も決まりはない。肩に力の入らないところにおいておく。

鐘が二回なったら目を半目にして、1mほど先の地面に視線をむける。

その姿勢で約20分、呼吸だけに集中して頭の中をからっぽにする。

それだけ。

 

20分を2セットほどするが、ほんとに只、座るのみ。

効果は自分の中で見つけましょうってことね。

1回2回くらいじゃ、たぶんなにもわからないと思う。

 

ボクとしては朝のお寺の空気ってだけで、ちょっと神々しい気分になれるね。

これはちょっとハマりそうよ。

 

只、眠たくなるのをどうすればいいかは、わからずじまいだったけど(*ノω・*)テヘ